アーティストってやつは…
(当時48歳)
あるインディー・アーティストの友人をみていると、若き頃の自分と重ね合わせてしまうことが多い。そして、こうやって逆の立場になることで、当時どうやって見られていたのかを何となく測り知ることができて、おもしろいほどに、いろんなことに合点がいく。
もちろん、これは自分視点での観察によるもので、彼は実際のところ自分とは違うわけで同じではないことは承知の上で、である。
彼はぼくと同じ年齢だ。感受性を失ったのは年齢のせいにしていた自分が恥ずかしいほど、彼の行動や発言は純粋で危うく、近づき難い。一見、攻撃的に見えてしまうのだが、同情するほど彼の自己破滅的な主張は強くなり、誰もわかってくれる人など存在しないと考えていると察する。こういうときは、あえてつけ離すべきだ。彼は誰かを求めながら、孤独であることで存在を見出している。そこに深入りしてしまうと、双方に深く傷つけ合ってしまうことだろう。
自分の意思に反する行動を取ることがある。あえて相手を試すような行動を取るのだ。そういうシチュエーションを作るのは自分自身なのに、そうしたことに嫉妬したり、後悔したりして、自分の存在を自分自身で否定する。それでいて、否定している自分をも肯定する、という矛盾もそこには存在している。
一方で、彼にはぼくには真似したくでもできない大きな違いがある。
それは人見知りしないことだ。
人との関わりを求めながら、何も行動できないぼくにとっては、彼の人見知りしない姿はとても興味深い。
彼は言う。「モダン・アートは難しい、という人がいるが、それは違う。何かを食べたときに、美味しいとか不味いと自分に合うか合わないかを感じる。モダン・アートも同じだ。作品を目の前にして、それがいいと思うか何も感じることがないか、ということだ」
完全に激しく同意する。
ストリート・フォトグラファー、というスタイルは、ソーシャルメディア時代の個々のプライバシーが尊重されるようになった現代において、体現することは困難な時代に変化している。
それでも、彼は被写体の正面に立って、堂々とファインダー越しにシャッターを切る。
反応は様々だ。顔を背ける人、真顔になって目線を逸らす人、彼を睨む人、不快になる人が大多数ではあるが、何も気にしない人、笑顔でポーズを取る人もいる。そういう無関心や肯定的な人たちを切り取る。それがストリート・フォトグラファーの一つの姿と言えるかもしれない。
そんな最中、明らかに不機嫌になって彼に抗議する人がいた。彼はいつものようにカメラのモニターをその人に見せながら、その写真を目の前で削除する。普通はこれで終わるのだが、その人はそれでも憤りが収まらず不満を述べ、いがみ合いとなってしまった。
その人は謝罪を求めたが、彼は謝罪しない。
「ちゃんと教育した方がいいよ」と言われたが、「不快な気持ちにさせてしまったことは友達としてすいませんでした」と言うのが、ぼくにできる精一杯。正直、ぼくは彼の行動を矯正する気はない。
彼が謝罪しないのは、それが「悪いことだ」と認めてしまうからなんだと思う。その場しのぎの謝罪は簡単だけど、そうはしない。自分は悪いことは何もしていない、というアーティストとしてのプライドなんだと思う。どれだけ人に否定されても、その中から彼の描くアートに辿り着く可能性があるのだとしたら、むしろ続けていいんじゃないかと思う。
日本では「人に迷惑をかけないように」という文化がある。でも「あなたは人に迷惑をかけないと生きれないんだから、他人の迷惑も許しなさい」と真逆の教えがある国もあるという。
ぼくは生粋の日本人で、その文化・道徳を学んできたから、この考えを知ったときは本当に「カルチャーショック」だった。そして、このマインドを自分も取り入れていこうとしている。
様々な考え方を持ったアーティストがいるのだがら、気難しい、多感だということで、アーティストっていう括りかたをしてしまうのはどうかと思うが、いや、実際のところ、そう言われて悪い気はしていない。